アメリカ留学のパイオニアたちの足跡をたどる:大山捨松とヴァッサー・カレッジ


今回は、「アメリカ留学のパイオニアたちの足跡をたどる」シリーズの第1弾として、大山捨松を取り上げたいと思います。捨松は、日本で初めてアメリカの大学を卒業した女性です。

大山捨松のポートレート
国立国会図書館より


海を渡った少女たち

1871年(明治4年)12月23日、岩倉具視率いる使節団(いわゆる「岩倉使節団」)が、横浜港を出発しました。この使節団には50人ほどの留学生が同行していましたが、うち5人が女子留学生で、捨松はその一人です。

このとき捨松は弱冠11歳。5人のうち最年少者が、のちに津田塾大学を創設することになる津田梅子で、まだ6歳の女の子でした。

当時、北海道の開拓を進めていた明治政府では、開拓にはフロンティア精神と人材育成が欠かせない、というわけで、西部開拓でめざましい発展を遂げつつあるアメリカに学ぼうという機運が高まっていました。使節団の主な目的は外交協定の見直しですが、先進的な文物を学びとろうという意欲にも満ち満ちていました。50名もの留学生が同行していたのは、その意欲のあらわれです。


ワシントンに着いた5人の少女たち。一番右が捨松、その左が梅子
(『鹿鳴館の貴婦人 大山捨松』より)


捨てたつもりで待つ

捨松ら5人の少女たちのアメリカ留学も、北海道開拓と無関係ではありません。

開拓事業の重要課題である人材育成のうち、とくに幼児教育において重要な役割を果たすのは母親である、ならば少女のうちからアメリカに学ばせて、やがて開拓地で模範的な母としてその役を担ってもらおう、という期待が政府側にあったのです。彼女たちの年齢が若かったのも、留学を終えて帰国するころには結婚(出産)適齢期になることが見込まれていたからです。いまの視点からすると、かなり問題のある発想ですね。

それで官費による女子留学生の募集をするのですが、なかなか応募する人はいません。かろうじて集まったのが捨松ら5人だけ。留学期間は10年と定められていました(3年説もあります)。やはりそれだけの期間を異国で過ごさせるというのは、親にとってもたいへんな決断だったでしょう。捨松という名前は、アメリカに旅立つ娘のことを「捨てたつもりで待つ」という母の切ない思いがこめられています。

ところが、捨松や梅子が先鞭をつけた女子留学生の派遣は、翌年には取りやめになってしまいます。少し先のことですが、彼女たちが帰国したときには、北海道開拓を担当していた官庁そのものが消滅していたのですから、当初の留学計画はどこへやら、ということになりますね。こうした政府の場当たり的な対応は、彼女たちの帰国後の人生にも影を落とすことになったのですが・・・ちょっと脱線しました。


高校まではニューヘイブンでのびのびと

捨松は、コネチカット州ニューヘイブンの、レオナルド・ベーコン牧師の家に預けられ、高校を卒業するまでの4年間を過ごします。ここで出会ったのが、生涯にわたって親友になるアリス・ベーコン。アリスはやがて、津田梅子が創設した女子英学塾(いまの津田塾大学)で英語教師を務めるなど、日本の女子教育に大きな貢献を果たすことになります。

ニューヘイブンは名門イェール大学のお膝元で、教育・文化レベルの高い町です。捨松はそのような環境で、のびのびと自分の個性を磨いていきました。学力はアメリカ人の同級生に劣らず優秀で、スポーツもよくできたようです。それでいてちょっとお転婆だったり、お茶目だったりする面もありました。


ニューヘイブンの町。イェール大学が存在感を示しています


最も幸福な4年間

19歳になった捨松が進学したのが、ニューヨーク州のヴァッサー・カレッジ(Vassar College)です。1861年に創立された女子大学で、アメリカの名門女子大学7校から成る「セブンシスターズ」の1校です(現在は共学)。

捨松は進学にあたってウェレズリー・カレッジやスミス・カレッジなども視野に入れていたようです。いずれもセブンシスターズの名門です。また、これに先立つ6年前に岩倉使節団がサンフランシスコに着いたとき、地元の新聞が「5人の少女たちはいずれヴァッサー・カレッジに進学する予定である」旨を書いていますので、ヴァッサー進学は予定のことだったのかもしれません。イェールは、当時まだ男子大でした。


まるでお城のようなヴァッサー・カレッジのキャンパス
(photo by Sabatheus/Wikimedia Commons)


ともかく捨松は、一緒に海を渡ってきた5人の少女のうちの一人、瓜生繁子と一緒にヴァッサー・カレッジで学ぶことになりました。繁子は音楽を学ぶ特別生として在学していたので、卒業までには至りませんでしたが、帰国後はピアノの奏者・演奏家として活躍します。捨松、梅子、繁子の3人は終生にわたってお互いを励まし合い、慰め合う間柄でした。

ヴァッサー・カレッジで捨松は寮生活を送りながら、「生涯で最も幸福で希望に満ちた4年間」を過ごすことになります。ヴァッサーはリベラルアーツ・カレッジですから、捨松もラテン語から哲学、数学から物理学、歴史、動物学などさまざまな分野を学びました。級友や教授たちからも好かれ、2年生のときにはクラス委員長も務めます。

成績はここでも優秀で、卒業式では選ばれてスピーチを行うほどでした。当初に予定されていた留学期間を1年過ぎていましたが特別に延長を許されて、1882年、日本人女性として初めてアメリカの大学を卒業するという快挙を成し遂げます。


ヴァッサー・カレッジの卒業記念写真。中央左のほうに捨松が見える
(『鹿鳴館の貴婦人 大山捨松』より)


「鹿鳴館の花」として

帰国後は、アメリカでの生活とのギャップなどから、不如意な日々を送ることになります。人生で最も多感な時期をアメリカで過ごした捨松には、当時の日本の水はなかなか馴染まなかったようです。捨松は、女子の高等教育機関をつくりたいという夢を抱いていましたが、周囲の反対もあって断念せざるを得ませんでした。

ほどなくして陸軍卿である大山巌と結婚、その披露宴を鹿鳴館で開き、社交界にデビューします。アメリカ仕込みの身のこなしは衆目を惹きつけ、たちまち「鹿鳴館の花」としてもてはやされるようになります。鹿鳴館では、捨松が発案して慈善バザーも開きました。日本で初めてのチャリティバザーです。

もう一つ、大輪の花が咲くことになります。捨松の叶えられなかった夢を、津田梅子が叶えることになったのです。梅子が女子英学塾を設立したときには、捨松も繁子も、そしてアリス・ベーコンも協力しました。彼らが一致協力して学校設立に向けて取り組む姿は、日本の女子教育史の最も感動的なワンシーンといえるでしょう。


夜会服を身にまとう捨松
(『鹿鳴館の貴婦人 大山捨松』より)


いま、はるかに捨松の人生に思いを馳せると、捨松にとって一番幸福だったのはアメリカで過ごした11年だったのかなとも思います。帰国後は上流社会で勇名をとどろかす捨松ですが、それも夫の立場があってのこと。当時の日本には捨松が本当に捨松らしい本領を発揮できる場がありませんでした。日本の国立大学が女子を受け入れるのは、1946年まで待たねばならなかったのです。捨松は最期まで、ヴァッサーでの寮生活を懐かしんでいたそうです。


「最も幸福だった」ヴァッサー・カレッジ留学中の捨松
(『鹿鳴館の貴婦人 大山捨松』より)


本記事を書くにあたっては、久野明子著『鹿鳴館の貴婦人 大山捨松』(中央公論社)を参考にさせていただきました。ご興味をおもちの方は、ぜひご一読ください。


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